第2回「都市大ダイバーシティ~テクノレディと身近なロールモデル~」

2012年より男女共同参画室の初代室長を務められた、岡田往子先生が3月でご定年を迎えられました。原子力研究所での研究の日々、2009年の文部科学省科学技術振興調整費の採択、男女共同参画室の前身である女性研究者支援室の立ち上げ、そして現在のダイバーシティ推進室に至るあゆみについて、お話していただきます。

1980年女性学生は学部生院生を含め40名程度在籍し、徐々に増えてきました。1985年頃、本学の広報誌では「テクノディ」と銘打って女性学生を取り上げています。機械工学科の伊東明美先生はテクノレディの表紙を飾ったおひとりです。

1986年に男女雇用機会均等法が施行されたころですから、本学の広報委員会は女性の社会進出への先見の明があったのだと思います。いつ頃まで、テクノレディという言葉が使われていたのか定かではないのですが、定着せず消滅したのは非常に残念です。女性だけを取りあげることを批判なさる方がいらっしゃいますが、今もまだ、特に工学系の女性はマイナーな存在ですし、ポイントを絞るというのは一つの戦略ではないでしょうか。さらに、社会が抱えている様々な課題に対しては、常に意識し、地道に継続的に活動していかなければ、それまでの慣習や思い込みは変わっていかないと私は思っています。

さて、女性専門教員は1996年に第一号が武蔵工業大学に誕生します。それが僭越ながら私です。1997年にエネルギー基礎工学科に配属されました。同時に環境情報学部が横浜に設立され、女性教員が大学全体として増加します。

広報誌「テクノレディ」
左:現ダイバーシティ推進室の室長 伊東先生(機械工学科2年)

未来を担う「テクノレディ」たち

しかし、工学系の女性の専門教員はその9年後の2006年に5名が着任し、やっと身近なロールモデルが複数になりました。前後しますが、2004年に第一回渋谷コロキュウムが開催されました。講演者は東洋大学・経済学部助教授(当時)の白石真澄先生と環境情報学部教授(当時)の故岩男壽美子先生で、そのタイトルが「少子化社会の諸問題と対策~少子化社会をどう乗り切るか~」でした。私はその会場に聴衆として参加し、質問をしたことを覚えています。「少子化対策には女性の働き方の理解が必要ではないでしょうか、女性の働く環境を整えていかなければ子供を産み育てることはできません。」と。これへの応えはだれもが想像するように、「その通りです。」となるのですが、私にはそれ以上の意味がありました。この質問には本学教職員の方々への「本学も環境作りを!」のメッセージを込めたのですが、汲み取っていただけた方はどの程度いらしたか。

そのころ、私は2002年に理工学系学協会の呼びかけで創設した学協会男女共同参画連絡会で活動を始めていました。この活動が、振興調整費(後の科学技術人材育成事業)女性研究者育成支援モデル事業の獲得に繋がります。私立の工学系大学で初めて、大きな事業に採択されたのはなぜなのか…次回に続く。